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2008年6月

液晶絵画still/motion

液晶絵画still/motion
2008年4月29日〜6月15日
国立国際美術館(大阪)

Photo

「液晶絵画」、その言葉の響きにまず魅了されはしないだろうか。本展は、一言でいうと映像作品展である。しかし、液晶ディスプレイに映し出される静的な作品たちと向き合うと、なるほどあえて「液晶絵画」と括ってみたくなるのもうなずける。初めに結論からいってしまえば、展覧会の内容はなかなかに楽しめたほうである。出展作品も「液晶絵画」というコンセプトから大きく外れるものは少なかったので、この種のタイトルにありがちな「看板に偽りあり」という印象もなかった。

 会場に入るとまず、照明を落とした真っ暗な部屋が用意されている。視覚を瞬間的に奪われた後、部屋の中ほどにあるスクリーンで、ビル・ヴィオラの映像作品と引き合わせられるという趣向である。来館者を液晶絵画の世界に引き込むための秀逸な仕掛けとなっている。ビル・ヴィオラの映像作品≪プールの反映≫は今見ても刺激的だ。約30年も前に作られたとは思えない。とある森の中、濁った水たまり(タイトルからすればそれはプールなのだが)に裸の男が飛び込もうとしている。次の瞬間、男は飛び込むのだが、その身は空中で制止し、やがてゆるやかに風景(森)へと解消されていく。一方、水面には男が飛び込んだ痕跡らしき波紋が広がっていく・・・そんな作品である。

ビル・ヴィオラの暗闇を抜けると、私の目当ての作家であるサム・テイラー=ウッドの≪スティル・ライフ≫と≪リトル・デス≫が目に入った。何年か前、ロンドンのナショナル・ギャラリーでほぼ同じ構図の静物画の隣にモニターを設置し、テイラー=ウッドの作品と見比べられるような展示企画に出会ったのが、私がテイラー=ウッドの作品に関心を抱いたきっかけだった。静物画として時間から切り出されたはずの事物たちに今一度時の流れを与えたかのような作品、その衝撃は今でも鮮やかに覚えている。ただ、画面に定着された「本来」の静物画が側にないと面白さは伝わり難いだろう。映像作品がなぜその形で映されなければならなかったのかは映像を見ているだけではわからない。パネルを用いてテイラー=ウッドのひな型となった静物画を説明するなど対応があればよかった。

ブライアン・イーノの作品は、作品それ自体というよりも展示されている空間の雰囲気がよかった。むろん、その雰囲気は作品によって作り上げられているのだが。部屋の一面に掲げられた縦長の4枚の液晶ディスプレイのうち、外側2枚は風景を、中2枚はゆるやかに像が変形していく女性が映し出されて、穏やかな土地の教会にいるような気分である。凝視してみるというよりは環境映像の類であり、そこでコーヒーでも飲みながらゆっくり読書でもするのが相応しい。このように環境映像として部屋に置いておけそうなものとしては、他に千住博の作品があった。映像で構成された水墨画といおうか、遠目には枯淡の味わいを感じさせる。

 本展の出展作品の中では、森村泰昌の作品が、面白さ、展示形態において突出していた。フェルメールの作品≪窓辺で手紙を読む若い女≫と≪真珠の耳飾りの少女≫を一つの映像としてつなぎ合わせたかのような作品≪フェルメール研究≫(正確にいえば、耳飾りの少女に扮した森村が書物を読んでいるところから、こちらを振り返って例の構図に到るという映像)。一方、フェルメールの≪絵画芸術≫の世界を再構成した作品は、森村の手法を知らずに見た人にはいまいち面白さが伝わらないだろう。解説過剰でも困るが、本展は全般的に解説が不足していたように思う。また、たまたま切らしていたのかもしれないが、多少解説も載っている出品リストがモノクロコピーだったというのも国立美術館としては残念である。

追記:
この展覧会において液晶絵画を成立させている液晶ディスプレイはシャープのアクオスでした。千住博の作品などはアクオスの黒い筐体が額縁のように見えてくるから不思議です。

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