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美術検定 モノを観る力?

美術検定 モノを観る力?
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昨年まで「アートナビゲーター検定」と言われていたものが「美術検定」と名を変えたらしい。名前が変わったことにより、どうにも言えない違和感をおぼえる。いや、正確には名称変更が問題なのではない。問題は付け足されたキャッチコピーとの相性だ。「モノを観る力。」

「モノを観る力」とはなんだろう。アートナビゲーター検定の過去の問題は、はっきり言って、アートに関する「知識」を問うものだ。「サグラダ・ファミリアの設計者は誰か?」「作者と作品でまちがった組み合わせはどれか?」などなど。

作品について知る、語る、あるいは他人をナビゲートするにはそれもいい、当然必要だ。だが果たして、それを身につけたところでモノを観る力が養われたと言えるのだろうか。それでも広告では高らかに謳う。「アートを知ることでアートを観る力がついてくる」と。

要は「モノを観る力」をどう考えるか、それが問題だ。仮にその力が「鑑賞」という行為に長けることを意味しているなら、目の前の芸術作品について知っている、「わかっている」というだけでは済まないだろう。

一枚の絵をみたとき、みんながみんな同じ感想を持つということはほとんどない。様々な意見や経験が一枚の絵を観ることから生まれ出るものだ。つまり、鑑賞とは個人的な体験で、そこから紡ぎだされる言葉もごくごく個人的なものでよい。そもそも観る力はあなたの内に備わっている。だからこそアレナスが提唱するような鑑賞プログラムにおいては、それを共有することを大事にしているのではなかったか。

だが、美術検定の内容では「モノについて知っている」の意味にしかならないだろう。そこから出てくるのはお仕着せの言葉たち、習得した知識だ。それではキャプション(解説文)を熟読してから、作品をちらっと流し見るという従来の鑑賞態度と指向性において大差がないように思う。美術検定も「始めに知識ありき」だ。

確かに知ることは大切で楽しいし、認定証によって夢を叶える人もいるだろう。そして美術検定を足がかりに、自由に美術と向き合い始める人もいるだろう。少々値段が高いとしても検定制度に一定の意味があることは否定しない。ただし、安易に「モノを観る力」を謳うことには疑問をなげかけずにいられない。美術を観ること、美術鑑賞とは何か?それはなんで必要か?という問いに答えるのは、実はけっこう難しいことだと思うから。

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コメント

私が大学学部時代の時、今も尊敬している先生ですが、その先生の授業でこのようなことを言われました。
いまこの時代に美術をやっている意味を明確に答えることが出来るのならば、単位をあげます。(授業を受ける必要がないという意味だろう)

そして続けてこう問うた。現代美術がこの先どうなるのか、現代美術の現状をどう考えるか。

自分の目で見ることと同じ問題として、自分の脳みそを使って考えることはとても大事なことであるが知識がより重要視される日本の風土の中では
一般の認識になりにくい。

それよりも検定何級持っているという基準が欲しいのが日本の性格。

いま時代は絶対的な見方よりも相対的な見方を求めている。
だから現代美術は一般に理解されにくい。

その茨の道を歴史が選んだ。

それは誰が選んだのだ?

無意識的に独裁を嫌った人たち。
精神の解放を求めたフロンティア達。

それらは美術を超えて様々なジャンルへ飛び火しているのではないか?

投稿: ryuusinn | 2007年6月26日 (火) 23時44分

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